父の死
2013年 05月 22日
5月18日の東京新聞の朝刊「生きている死者」を読んで、そのとおりだと思った。
死者はどこにも過ぎ去らない。
いつも私たちの傍らにいる。
死者にとって、生者を守護することは、比すべきものなき誇り高い使命である。
「不可視な涙」は、寄り添う死者たちへのもっとも高貴な捧げものと変じている。
父が癌で亡くなって、20年になりますが、
未だに読めない、闘病日記があります。
自宅での闘病生活を、その日食べたもの、薬、様子を書いた日記。
読んだら、悲しみでつぶされそうだから、20年たっても読めないでいます。
悲しみは愛情なのですね。
ふと思い出すと、
スイッチが悲しみに入ります。
悲しみが、死者とのつながる愛であるなら、それは嬉しい。
小さい時から、父がいれば、なにがあっても安心だと思っていたので、
その父が癌で余命半年と聞いた時は、桜並木の東大病院を歩きながら、
絶望となんとかしなければの思いでいっぱいでした。
癌と知って、妹に話し、主治医とも相談して
本人と母には告げませんでした。
C型肝炎から肝臓がんになった父の治療は、かん動脈塞栓術(アンギオ)という治療。
それを受けなければ、半年。
受ければまた半年延命する。
その治療を何度か受けて、4年半延命しました。
本人には癌の治療とは言わずに、肝臓に良性の腫瘍ができているって話をして、
担当医も癌とわからないよう、配慮してくれたのは、ありがたかったです。
でも、癌が肺や骨に転移して、もう治療が受けられなくなった時、
東大病院では、当時はモルヒネをつかわずに、痛みをブロックして、ベッドに寝たきりになる。
もちろんトイレに行く事もできない。って聞いた時に、なんとかしたいって思って、妹と相談して、
今はなくなってしまったけれど、清瀬のホスピスに相談に行きました。
もう治療ができないのなら、痛みを止めて、普通の生活をしてほしいって思いました。
ホスピスでは錠剤のMSコンチンというモルヒネをくれます。
でも、ホスピスに行くという事は、癌だと父に話さないといけない。
勇気を持って、話しました。
今まで言わなくて、ありがとう!
そして、今教えてくれて、ありがとう!
その夜、大量の吐血をして、肝臓からの出血だと覚悟したのですが、
ストレスによる胃潰瘍でした。
一晩で、吐血するほど、ストレスを感じていました。
もう車いすだったけれど、
清瀬から自宅に戻る時は、必ず玄関まで見送ってくれました。
紅葉の木々に囲まれたホスピスで、私を見送る父のまなざし。
それが10月の後半です。
それから、やはり自宅に引き取りたい。
錠剤のモルヒネを飲みながら、なんとかできるのではないかって調べていたら
在宅ホスピスがありました。
10月の末には、自宅に帰り、往診していただいて、モルヒネを処方してもらいました。
その頃は、腕も癌でおおきなこぶができていて、冷やしていました。
父は「癌太郎」とか言っていましたが、頭がぼ~っとしてしまうので、モルヒネを飲むのを拒否し始めました。
痛みがくると、母と妹と私で、痛む箇所を手拭いで縛って、さすります。
痛んでいる時は、こんなに苦しいなら、早く楽になったらいいなあと何度も思いました。
12月。
ある日父が、「フグ鍋しよう!」って言って、京都のフグ屋さんに自分で電話をしました。
翌日、フグが届いて、みんなで鍋を囲みましたが、父は一口しか食べられませんでした。
みんなで食べなさい
それが最後に口にした食事でした。
日増しに、痛みが増して、母・妹・私も、もう希望が見えない。
亡くなる2日前に、突然自宅の2階を見てみたいと言い、歩けないから無理でしょと思ったのですが、
二人で抱えてみることにしました。
女性二人だから、本来は大変なのですが、ひょいっと抱えて、2階まで行く事ができたのです。
よかったね。2階に行けたね。もしかしたら、よくなっているのかもしれないね。
2階も見れたけれど、本当は会社に行きたいんだよ。
会社までは車で行かないといけないので、無理でした。
12月17日明け方、命を引き取りました。
その晩は、不思議なことに、私の子供達も学校があるのに、なぜか実家に泊まっていました。
父は、娘、母、孫たちに囲まれていたのです。
その日に亡くなるなんて。
翌年まで生きていると思って年賀状もすっていました
葬式をはでにやることはないよ。
本当に親しい人だけでやってほしい。
告別式の後、火葬場に行く霊柩車が、闘病中一度も行けなく、行ってみたかった会社の前で
クラクションをならしてくれました。
お葬式では、まったく涙が出なかったけれど、そのクラクションの音を聞いて、
号泣しました。
で、心に誓いました。
大丈夫だよ。大切にしていたものは、私が守っていくよ。
ちゃんと橋渡しするから。
今日、幼稚園の時一緒に役員をやって、とても親しかった方が亡くなったのを聞きました。
彼女は子供が4人いても、いつも疲れた様子がなく、持てなし上手でした。
一番下の子は、私の長男と同じ年なので、もう自立できます。
「生きている死者」
死者は、生きていると守れない家族を、死ぬことで守ってくれるのかもしれないなあ。って思っています。
悲しみが、父への捧げものであれば嬉しい。
そして、父の死を文章で書けたのも嬉しい。
死者はどこにも過ぎ去らない。
いつも私たちの傍らにいる。
死者にとって、生者を守護することは、比すべきものなき誇り高い使命である。
「不可視な涙」は、寄り添う死者たちへのもっとも高貴な捧げものと変じている。
父が癌で亡くなって、20年になりますが、
未だに読めない、闘病日記があります。
自宅での闘病生活を、その日食べたもの、薬、様子を書いた日記。
読んだら、悲しみでつぶされそうだから、20年たっても読めないでいます。
悲しみは愛情なのですね。
ふと思い出すと、
スイッチが悲しみに入ります。
悲しみが、死者とのつながる愛であるなら、それは嬉しい。
小さい時から、父がいれば、なにがあっても安心だと思っていたので、
その父が癌で余命半年と聞いた時は、桜並木の東大病院を歩きながら、
絶望となんとかしなければの思いでいっぱいでした。
癌と知って、妹に話し、主治医とも相談して
本人と母には告げませんでした。
C型肝炎から肝臓がんになった父の治療は、かん動脈塞栓術(アンギオ)という治療。
それを受けなければ、半年。
受ければまた半年延命する。
その治療を何度か受けて、4年半延命しました。
本人には癌の治療とは言わずに、肝臓に良性の腫瘍ができているって話をして、
担当医も癌とわからないよう、配慮してくれたのは、ありがたかったです。
でも、癌が肺や骨に転移して、もう治療が受けられなくなった時、
東大病院では、当時はモルヒネをつかわずに、痛みをブロックして、ベッドに寝たきりになる。
もちろんトイレに行く事もできない。って聞いた時に、なんとかしたいって思って、妹と相談して、
今はなくなってしまったけれど、清瀬のホスピスに相談に行きました。
もう治療ができないのなら、痛みを止めて、普通の生活をしてほしいって思いました。
ホスピスでは錠剤のMSコンチンというモルヒネをくれます。
でも、ホスピスに行くという事は、癌だと父に話さないといけない。
勇気を持って、話しました。
今まで言わなくて、ありがとう!
そして、今教えてくれて、ありがとう!
その夜、大量の吐血をして、肝臓からの出血だと覚悟したのですが、
ストレスによる胃潰瘍でした。
一晩で、吐血するほど、ストレスを感じていました。
もう車いすだったけれど、
清瀬から自宅に戻る時は、必ず玄関まで見送ってくれました。
紅葉の木々に囲まれたホスピスで、私を見送る父のまなざし。
それが10月の後半です。
それから、やはり自宅に引き取りたい。
錠剤のモルヒネを飲みながら、なんとかできるのではないかって調べていたら
在宅ホスピスがありました。
10月の末には、自宅に帰り、往診していただいて、モルヒネを処方してもらいました。
その頃は、腕も癌でおおきなこぶができていて、冷やしていました。
父は「癌太郎」とか言っていましたが、頭がぼ~っとしてしまうので、モルヒネを飲むのを拒否し始めました。
痛みがくると、母と妹と私で、痛む箇所を手拭いで縛って、さすります。
痛んでいる時は、こんなに苦しいなら、早く楽になったらいいなあと何度も思いました。
12月。
ある日父が、「フグ鍋しよう!」って言って、京都のフグ屋さんに自分で電話をしました。
翌日、フグが届いて、みんなで鍋を囲みましたが、父は一口しか食べられませんでした。
みんなで食べなさい
それが最後に口にした食事でした。
日増しに、痛みが増して、母・妹・私も、もう希望が見えない。
亡くなる2日前に、突然自宅の2階を見てみたいと言い、歩けないから無理でしょと思ったのですが、
二人で抱えてみることにしました。
女性二人だから、本来は大変なのですが、ひょいっと抱えて、2階まで行く事ができたのです。
よかったね。2階に行けたね。もしかしたら、よくなっているのかもしれないね。
2階も見れたけれど、本当は会社に行きたいんだよ。
会社までは車で行かないといけないので、無理でした。
12月17日明け方、命を引き取りました。
その晩は、不思議なことに、私の子供達も学校があるのに、なぜか実家に泊まっていました。
父は、娘、母、孫たちに囲まれていたのです。
その日に亡くなるなんて。
翌年まで生きていると思って年賀状もすっていました
葬式をはでにやることはないよ。
本当に親しい人だけでやってほしい。
告別式の後、火葬場に行く霊柩車が、闘病中一度も行けなく、行ってみたかった会社の前で
クラクションをならしてくれました。
お葬式では、まったく涙が出なかったけれど、そのクラクションの音を聞いて、
号泣しました。
で、心に誓いました。
大丈夫だよ。大切にしていたものは、私が守っていくよ。
ちゃんと橋渡しするから。
今日、幼稚園の時一緒に役員をやって、とても親しかった方が亡くなったのを聞きました。
彼女は子供が4人いても、いつも疲れた様子がなく、持てなし上手でした。
一番下の子は、私の長男と同じ年なので、もう自立できます。
「生きている死者」
死者は、生きていると守れない家族を、死ぬことで守ってくれるのかもしれないなあ。って思っています。
悲しみが、父への捧げものであれば嬉しい。
そして、父の死を文章で書けたのも嬉しい。
by kisan35
| 2013-05-22 20:00
| ヒーリング・精神世界

